みなさんこんにちは。
今回も東日本大震災について。宮城県産業技術総合センター、橋本建哉先生のお話を引用させていただきます。
先月の酒造組合伊藤参事のコラムで紹介されていたが、震災直後に全国の技術者仲間に酒造の装置の提供の呼びかけたとき、灘の櫻正宗さんと同じく鹿児島の焼酎蔵の方々がいち早く手を上げて下さった。「さつま小鶴」醸造元の小正醸造(株)さん、「森伊蔵」醸造元の(有)森伊蔵酒造さん、「魔王」醸造元の白玉醸造(名)さん、そして「さつま若潮」醸造元の若潮酒造(株)さんの4社からポンプや瓶詰め機からトラックまで多くの装置をいただいた。
名取市の(有)佐々木酒造店の製造再開の見込みが立っていなかった震災の年の秋、鹿児島県工業技術センターの瀬戸口食品・化学部長を通じ、「白玉醸造さんがトラックを譲って下さる」というお話しをいただいた。同社の佐々木淳平杜氏にお話ししたところ「どうやって運んでこようか」と悩んでいたので、つい口が滑って「自分で運転して持ってくればいいのでは?何なら一緒に行ってあげましょう」と言ってしまった。「ではお願いします」と即決され、その年の11月、佐々木さんと2人で鹿児島にトラックをいただきに伺うことになった。
2日間の休暇をいただき、飛行機で一路鹿児島へ。朝、仙台を出て、11時過ぎには鹿児島空港着。そのときは「けっこう近い」かと思ったが、後にたいへんな勘違いであったと知ることになる。空港でレンタカーを借りて、初日は既に機器を送って下さった小正醸造さんと森伊蔵酒造さんへご挨拶に伺った。両社とも温かく迎えて下さり「我が社も海からほど近くにあり、他人事とは思えません。閖上で製造再開できるよう祈っています。」と激励して下さった。佐々木さんはもちろん、傍らで私も感激の涙を流さずにはいられなかった。
2日目はいよいよトラックを受け取りに白玉醸造さんへ。今回の話をつないで下さった鹿児島県工業技術センター瀬戸口部長自ら車で2時間の道を送って下さった。用意されてトラックはピカピカに磨かれて、荷台には酒造りに使う装置も。恐縮しきりでお礼を申し上げ、トラックに乗って若潮酒造さんへ。瀬戸口部長は「道に迷ったら困るでしょう」と若潮酒造さんまで先導して下さった。若潮酒造さんは倉庫に案内していただき「ここのものでしたら何でもお持ち下さい」と言って下さった。
伺った4社の蔵元様からは「街に酒蔵があり地酒があることはその街の食卓、ひいては文化があるということ。街の食文化の灯を消さないために是非とも立ち上がってほしい」とのお言葉をいただいいた。たくさんの機械と皆さまのお心遣いをいっぱいに乗せて、夕刻の国分ICから名取を目指して出発した。
夜11時過ぎに関門橋を渡り、いよいよ本州に。カーブがきつくアップダウンのある霧の中国道を長距離トラックのハイビームにおびえながらトラックを走らせた。岡山では(道を間違えて)海沿いで朝を迎え、神戸大阪では高速なのに渋滞に。昼は福井のSAで「へしこ」の丼を大急ぎでかきこんで出発。2時間ごとに交代しながらひたすら走るが、名取はまだ遠い。最初は助手席で寝ては悪いと我慢していたのだが、そろそろ疲れて話す話題もなくなり夢の世界へ。ノーマルタイヤで積もっているかもしれない雪を心配しつつ日が落ちて暗くなってきた新潟、会津とトラックを走らせ、疲れきって名取ICにたどり着いた時には鹿児島で高速に乗ってから26時間が過ぎていた。
灘の櫻正宗さんと鹿児島の皆さんの想いの込められた機器のおかげで、佐々木酒造店がタンク5本だけの県内最小の仮設蔵として製造を再開できたのは震災の翌年の冬。地元のひとめぼれで醸された純米酒は閖上から一字をとって「閖(ゆり)」と名付けられ、いま佐々木酒造店の主力商品となっているが、5つの川が山から運んだ豊富な養分に恵まれた仙台湾の漁場から閖上の港に揚がる名産の赤貝やカレイなどの魚介類に寄り添い、そのおいしさを引き立ててくれる適度な酸味とうま味ののった味わいに出来上がっている。仮設蔵の限られた条件の中で佐々木さんたちが考え、造り上げた閖上の「食文化」がこの一本に込められている。
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橋本建哉先生のプロフィールは、こちら。
http://goo.gl/MC0xXb
Facebook宮城の酒ページ 3月19日掲載分より